

こんにちは、さえぐさはなえです。
今回は私が引き込まれた『十牛図』を手がかりに、スズメがどのようにして「本当の自分」に出会っていくのかをお話ししていきたいと思います。
『十牛図』は禅の教えで、修行の段階を10の絵と詩で表したものです。
それは「一、尋牛(じんぎゅう)」という、牛がいなくなったと思った男が牛を探しに行く絵から始まります。
牛は「真の自己」を置き換えたものです。本来、どこにも行きようのない自分を見失ったと思って探しに行くんですね。
『あした、どこかで。3』では、スズメは自分を幸せにしてくれていた「何か」をなくした思い、旅をしながら「あなたは私の探しているものですか?」と尋ねます。
本当は「自分」を探しているのですから当然、相手からは「違いますよ」という答えが返ってきます。
でもスズメにはその認識がないので、もう見つからないと思ってがっかりしてしまうのです。
側から見ると滑稽かもしれませんが、光と鏡がなければ自分の顔を見られないように、人間はいつも何か外的な要素と照らし合わせて自分を見ているものです。
だから自分を見失ったと思うような時は、外的な要素によって思い込みや偏執といった何らかのバイアスがかかっていて、「自分が思う自分」と「本当の自分」との間に齟齬が起こっている状態なのではないかと私は考えます。
それは「世間の常識」とか「地位」「お金」など一見まともそうな知識でできた「もの差し」で測った結果生まれるのではないでしょうか。
『あした、どこかで。3』はそのバイアスを取り除いて、本当の自分に出会う旅のお話です。
ただ、このバイアスというのがどうにも厄介で、自分を過大評価する方向にも、過小評価する方向にも作用して私たちを迷わせます。
もし過大評価で勘違いしているなら「おめでたい人」ですし、過小評価で萎縮しているなら「もったいない人」で、いずれも「幸せな人」とは言えませんね。
どうも「本当の幸せ」を得るためには外的な要素による「もの差し」に左右されない「本当の自分」を確立させておく必要がありそうです。
お話の中でスズメが問答する動植物は、作者側が意図的に選んだものです。
サクラは散る、アジサイは色が変わる、イチョウは落葉する、タンポポは綿毛になる、ジョウビタキは渡り鳥。
そう、いずれも移り変わりがハッキリしているものたちです。
前回「諸行無常」でお話しした通り、周囲の環境は移り変わるもの。
それに合わせて一喜一憂していては身が持ちませんので、あえてわかりやすいものを選びました。


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